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文化特集

アメリカのモーテル文化の起源と台湾における発展

投稿日:2021 年 11 月 3 日

最終更新日:2026 年 9 月 24 日

アメリカ・カリフォルニア州サンルイスオビスポ(San Luis Obispo)の「Motel Inn」(旧称 Milestone Mo-Tel)
オレゴン州ポートランドにあるパームズ・モーテル。夜には鮮やかなネオンサインが輝きます。

モーテル発祥の地、アメリカ

「Hotel」はフランス語の hôtel に由来し、その語源はラテン語の hospitale にさかのぼります。もともとは旅人を迎え、宿泊場所を提供する施設に関わる言葉でした。一方、「Motel」は英語の Motor と Hotel を組み合わせた略語です。中国語では「汽車旅館」と呼ばれ、台湾では発音を写した「摩鐵」という呼び名も親しまれています。

モーテルは、20 世紀初頭のアメリカで自動車文化とロードトリップが広がるなかで生まれた宿泊形態です。従来のホテルとの最大の違いは、宿泊空間と自動車の利用が直接、密接に結びついていること。通常、客室の近く、場合によっては部屋のすぐ前に車を停めることができ、1 階を駐車スペース、2 階を客室とする施設もあります。この「駐車と宿泊を一体として考える」設計が、モーテルを象徴する特徴となりました。

厳密には、モーテルが 1925 年に突然誕生したわけではありません。自動車が普及し始めた 20 世紀初頭には、アメリカ各地に Auto Camp(自動車旅行者向けのキャンプ場)が現れ、主に駐車やテント設営の場所、基本的な生活設備を提供していました。快適さや利便性への要望が高まるにつれて常設の小屋が増設され、Cabin Camp(自動車旅行者向けのキャビン付きキャンプ場)や Tourist Court(中庭を囲む平屋建ての宿泊施設)など、車で立ち寄って泊まれる施設へと発展しました。1925 年、建築家で不動産開発業者でもあった Arthur S. Heineman がカリフォルニア州 San Luis Obispo に開業した Milestone Mo-Tel は、「Motel」という名称とコンセプトで営業した世界初の本格的なモーテルと広くみなされています。Motor と Hotel を組み合わせたこの名称は、後に Motel Inn へと変更されました。建物にはカリフォルニアのミッション・リバイバル、すなわちスペイン植民地時代の様式を復興した建築様式が採用され、主に自動車で旅をする人々を迎えていました。

自動車の普及と道路網の整備に伴い、モーテルは北米で急速に増加しました。アメリカ政府のセンサスによると、「Motels, tourist courts」などに分類される自動車旅行者向け宿泊施設は、1939 年の約 13,521 軒から 1958 年には 41,332 軒に増えています。初期のモーテルの多くは設備が簡素で、豪華さよりも、車で訪れる旅行者に便利で手頃な、出入りしやすい宿泊場所を提供することを重視していました。

自動車文化とアメリカのロードトリップ

自動車とアメリカの宿泊業がこれほど深く結びついた背景には、独特の地理的条件、都市の発展、交通文化があります。国土は広大で、都市間の距離も長く、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなど公共交通が発達した大都市を除けば、多くの地域で日々の生活や仕事が自動車に大きく依存しています。自動車が一部の人のぜいたく品から一般家庭の重要な移動手段へと変わるにつれ、旅のスタイルも変化しました。カナダの哲学者マーシャル・マクルーハンも、アメリカの自動車文化について「アメリカは自動車の上に乗った国であり、自動車のないアメリカがどうなるか、私たちには想像できない」と評しています。

こうしてロードトリップは、アメリカ文化の重要な一部となりました。自動車は単なる移動手段にとどまらず、家族での休暇や州をまたぐ旅、アメリカ大陸を探索するための大切な存在となったのです。モーテルは、まさにこの暮らし方から生まれました。従来のホテルに泊まるように都心まで入る必要も、宿を探して大きく遠回りする必要もなく、道路沿いに車を走らせれば、駐車して休憩し、一夜を過ごせる場所が見つかりました。

この特徴は、アメリカならではの「Drive-through(ドライブスルー)」文化とも通じます。レストラン、銀行、薬局から、後のドライブインシアターやさまざまなロードサイド施設まで、車を降りずに利用できるサービスが発達しました。モーテルはドライブスルーそのものではありませんが、運転者の利便性を空間設計の出発点とする考え方は共通しています。

Route 66:モーテル文化の象徴

アメリカのロードトリップを語るうえで欠かせないのが、有名な U.S. Route 66 です。

1926 年に開通したルート 66 は、イリノイ州シカゴを起点に、西のカリフォルニア州サンタモニカまで延びる道路です。全長は約 2,448 マイル、約 3,940 キロメートル。後に「Main Street of America(アメリカのメインストリート)」「Mother Road(母なる道)」と呼ばれ、アメリカの道路文化を代表する象徴となりました。

Route 66 沿いには、かつて数多くのモーテル、レストラン、ガソリンスタンドが集まっていました。現在では州を結ぶ主要幹線道路としての役割を終えていますが、沿道には当時の特徴を残す歴史的なモーテルが数多く現存しています。その一部はアメリカの国家歴史登録財 National Register of Historic Places に登録され、道路文化を伝える貴重な遺産となっています。

Wigwam Motel、Blue Swallow Motel、West Winds Motel などは、今も Route 66 の旅を象徴する宿です。ロードトリップを楽しむ人々にとって、こうした昔ながらのモーテルに泊まることは、単に寝場所を確保することではありません。建物や看板、客室、周囲の街並みを通じて、20 世紀のアメリカの旅の歴史に触れる体験でもあります。

Route 66 は、映画やポピュラーカルチャーにも繰り返し登場してきました。『フォレスト・ガンプ/一期一会』には沿道の有名なランドマークが登場し、ウォン・カーウァイ監督の『マイ・ブルーベリー・ナイツ』はアメリカのロードトリップを物語の重要な背景とし、Route 66 沿いでも撮影されました。ディズニーのアニメーション映画『カーズ』も、ここを主な舞台としています。これらの作品は、道路、自動車、モーテル、そしてアメリカの旅の文化の結びつきをさらに印象づけました。

簡素な宿から大型モーテルへ

1960 年代に入ると、アメリカのモーテルは初期の簡素な宿泊施設から、より大規模で設備の整った施設へと変化し、一部の事業者は都市部や観光地にも進出しました。

この頃には、モーテルは宿泊業全体に影響を及ぼすほど重要な存在となっていました。1962 年、American Hotel Association は正式名称を American Hotel and Motel Association に変更し、組織名に Motel を加えました。この改称自体が、新しい宿泊形態だったモーテルが、アメリカの宿泊産業に欠かせない存在へと成長したことを示しています。その後、BnB(朝食付きの民宿)、Hostel(ホステル)、Capsule Hotel(カプセルホテル) などさまざまな宿泊形態の事業者が増えたことに対応し、より幅広い業態を包含する現在の American Hotel & Lodging Association(AHLA)へと改称されました。

1970 年代には、モーテルの形態がさらに多様化しました。道路脇の小さなキャビン型の宿から、観光地、都市近郊、さらには都心に立つ大型施設まで、それぞれ異なる市場での位置づけが生まれていきました。

1980 年代以降、一部のモーテルは大型の共用施設よりも客室への投資を重視する経営へと進みました。従来の大型ホテルでは、ロビー、宴会場、会議室、大規模な飲食施設に多額の投資が必要なのに対し、多くのモーテルは客室そのものに資金を集中。より手頃な料金で広い客室と充実した浴室・レジャー設備を提供し、競争力のある別の宿泊スタイルを築きました。

つまり、モーテルは変わらぬ姿の「安価なロードサイドホテル」ではありません。自動車文化の発展とともに、便利で経済的な宿から、多様なビジネスモデルへと進化してきたのです。

アメリカの華人移民と宿泊業

1970 年代以降、華人移民もアメリカの宿泊業を担う重要な経営者層となり、とりわけ南カリフォルニアに集中していました。当時は家族で中小規模のホテルを営む例が多く、大勢の従業員を雇わず、施設内に暮らしながら家族でフロント、客室清掃、日々の管理を分担する事業者もいました。初期の華人移民にとって、アメリカのモーテル経営は高度な英語力を必要とせず、第一世代にも取り組みやすい仕事でした。また、カリフォルニア大学ロサンゼルス校や南カリフォルニア大学を卒業した多くの中国語圏の留学生も、アメリカへの移住を目指し、カリフォルニアのモーテル経営の可能性と収益性に着目して参入しました。

当時、南カリフォルニアの華人系ホテルは相当な規模に達していました。1980 年代半ばには、南カリフォルニアの台湾系ホテル業界団体の会員名簿に約 1,200 軒が掲載され、その大半は 70 室以下の中小規模の施設でした。2010 年代半ばの統計でも、アメリカで華人が経営するモーテルは 1,000 軒余りを維持していました。

移民第二世代の教育水準が高まり、宿泊業でチェーン化、ブランド化、専門的な経営が進むにつれて、一部の華人経営者は従来の家族経営から離れていきました。その後の南カリフォルニアでは、インド系をはじめとする他の移民層が多数参入し、アメリカの宿泊業ならではの移民による起業文化が形成されました。

台湾のモーテル産業の発展

1968–1980 年:黎明期 アメリカのモーテルという発想が台湾へ

台湾のモーテルの歴史は、1960 年代末にさかのぼります。

1968 年、アメリカのホテル・モーテル業界団体が交流のため台湾に訪問団を派遣しました。これを受け、台湾政府はモーテルと自動車旅行の関係に注目し、翌年には行政院交通部觀光委員會がモーテル建設の指導策と優遇規定の導入を提案しました。民間によるアメリカ式モーテルの建設を促し、「8 年間でホテルの客室を 8,000 室増やす」という目標を達成することで、自動車の普及と道路整備に合わせ、新たな観光・宿泊の形を育てようとしたのです。

1960 年代末の台湾では、国道 1 号・中山高速公路はまだ検討段階にありました(1971 年着工、1974 年に十大建設の事業に組み入れ)。一般市民の間に自動車文化が芽生え始めた時期でもあります。1968 年 9 月、行政院は外国製自家用乗用車の輸入自由化を決定し、翌 1969 年 5 月には中華賓士が設立され、台湾で Mercedes-Benz の販売代理を開始しました。自動車は、ごく一部の特権層のぜいたく品から、より広く使われる日常の移動手段へと変わり始めました。当時、当局は新しいモダンな宿泊施設への関心を高めるため、台灣觀光協會を通じて主要な新聞などで motel の中国語名称を公募する企画も行いました。

同じ時期、台湾初のモーテルの発想を取り入れた宿泊施設も登場しました。1969 年 7 月 20 日、萬美觀光事業股份有限公司が新北市萬里の海辺に建設した「汽車旅站」が開業。元行政院長で一級上将の何應欽将軍がテープカットに出席し、萬里海水浴場とともに華々しくオープンしました。この海辺のモーテルは、後の「白宮行館」へと発展します。この事例は、台湾のモーテル史における重要な出発点とされています。その後、恆春の南灣、墾丁、桃園の石門、台湾東部など主要な観光地にも、政府の奨励を受けて民間企業が建設したモーテルが次々に誕生しました。

初期の施設は、今日の台湾で親しまれている「摩鐵」とは大きく異なっていました。アメリカの Roadside Motel に近く、自動車旅行のために設計され、海辺や景勝地、道路沿いなどの観光地に多く立地していました。当時の台湾の人々にとって、モーテルは新しい宿泊形態であると同時に、近代化を象徴する存在でもありました。

1981–1987 年:台湾独自の発展の始まり テーマ型モーテルの登場

1981 年、アメリカ在住の華僑が台南に「芝柏園」モーテルを建設しました。台湾の多くの研究では、これを新しいモーテルの発展における重要な転換点と捉えています。ロードトリップの需要に応える初期のアメリカ式 Motel とは異なり、台湾のモーテルは「駐車の便利さ、独立した客室、高いプライバシー性」を台湾の利用者のニーズと結びつけるようになりました。

芝柏園の登場をきっかけに、モーテルは単なる道路沿いの宿から、テーマや世界観を持つ内装へと発展し始めました。この時期の施設は、都市の周縁部、高速道路の近く、農業地域などに多く、平均的な規模はまだ小さいものでした。

関連する研究では、1980 年代初頭の台湾全土のモーテルは、約 100 軒にとどまっていたと推計されています。

1988–2000 年:成長期 経済発展と自動車の普及

1980 年代後半、台湾経済の急成長と自家用乗用車の増加に伴い、モーテルも急速な拡大期を迎えました。

1988 年、台中に水利会から安価に土地を借り、アメリカ式モーテルを参考に設計した「加州旅館」が登場しました。当時の発展を象徴する事例として業界で注目され、多くの同業者が視察し、その方式を取り入れました。区画整理や都市外環道路・省道周辺の開発が進むなか、地主の間で将来の開発まで土地を活用する需要が増え、モーテルは従来の観光地から都市の周縁部へと広がりました。この時期の投資規模はまだ比較的小さかったものの、桃園では地元の有力者が共同出資してチェーン展開を始め、ブランド経営という考え方が徐々に形づくられました。

言い換えれば、1980 年代以前は「アメリカの発想を導入する」段階でしたが、1980 年代後半からは、台湾の事業者が独自の特色を備えたモーテルのビジネスモデルを模索し始めたのです。

2000–2008 年:ブティック化と競争激化の時代

2000 年以降、台湾のモーテル産業は「車を停めやすい宿」から「滞在そのものを楽しむ体験」へと大きく転換しました。薇閣などに代表される事業者は、建築デザイン、大胆で華やかな内装、テーマ別の客室を取り入れ、メディア広告によるブランド発信を展開。それまで比較的目立たなかったモーテルが、マスメディアから注目を集める消費市場へと変わりました。

2002 年に台北の薇閣などが台頭すると、「ブティック」「スタイリッシュ」といった発想が急速に広まりました。ジェットバス、カラオケ、スチームルーム、スパ、高級ホテルに引けを取らない豪華なテーマ装飾、さらには専用プールまで客室に導入され、モーテルはブティックホテルやデザインホテル、リゾート型の宿泊施設とも競い合うようになりました。

この頃の台湾のモーテルは、アメリカの本来の Motel とは大きく異なる存在になっていました。アメリカの中心的な役割が「自動車旅行者に便利な宿を提供すること」だったのに対し、台湾の新しいモーテルは「車での来館を前提に、パーティーやナイトライフの体験を中心に据えた宿泊サービス」へと変化していったのです。

2004 年前後には市場が一段と活況を呈し、北部や台中などに高水準のモーテルが数多く誕生しました。内装、設備、ブランド、価格をめぐる激しい競争が始まり、台湾のモーテル産業は、いわゆる「戦国時代」に入りました。

2008–2019 年:激しい競争と業界の成熟

2008 年の世界金融危機以降、台湾のモーテル市場は急拡大から成熟・飽和へと移行していきました。

この時期には参入に必要な投資額が大きく上がり、新規施設では大型建築や豪華な客室の整備に数億台湾元を要する例も多くなりました。一方で新たな客室の供給は増え続け、一部地域では実際の需要を上回るようになりました。

この間、台湾の宿泊市場は観光政策全体、中国大陸からの旅行市場、民宿、無許可の日貸し宿泊施設などの影響も受けていました。特に 2010 年代半ば以降、中国大陸からの旅行市場が急速に縮小し、観光ブームを受けて増加した宿泊事業者の一部は経営上の厳しさに直面しました。

その結果、モーテル産業には 2 つの方向が見られるようになりました。大手ブランドやグループ、高水準のブティック型モーテルが競争を続ける一方、無許可で老朽化した施設、設備が不十分な施設、土地の賃料負担が大きいトタン張りの建物を使った施設の一部は、市場から撤退していきました。

土地そのものの資産価値も、モーテルの存続を左右する重要な要素となりました。特に都市近郊の区画整理地区や主要道路、交通の結節点に近い施設は、再開発の可能性が高い土地に立っていることが多く、古いモーテルの一部は同業者ではなく不動産開発業者に買収され、新たな建築事業に転用されました。

2020–2022 年:コロナ禍の影響 事業の見直しとデジタル化

台湾のモーテル産業にさらなる打撃を与えたのが、2020 年から世界に広がった新型コロナウイルス感染症です。国際旅行がほぼ停止し、出張と観光の宿泊需要も同時に落ち込みました。台湾は初期には比較的良好に感染を抑えていましたが、海外からの旅行者の不在、県や市をまたぐ旅行の減少、消費者心理の変化により、宿泊業への影響は避けられませんでした。

この期間、モーテルには 2 つの側面が見られました。客室専用ガレージや独立した出入口、ほかの客室から隔てられた構造を持つ施設では、大型ホテルの共用空間と比べて、プライバシーを確保しやすく、人との接触を抑えられる利点がありました。一方、日帰り利用や短時間の滞在を主要な収益源としてきた施設は、移動や交流の制限による需要減少を完全に免れることはできませんでした。

同時にコロナ禍は、オンライン予約、OTA、非接触サービスなど、台湾の宿泊業のデジタル化を加速させました。これらは次第に経営に欠かせない手段となりました。

2023 年以降:新たな転換 原点を見直し、多様な宿へ

2023 年以降、台湾のモーテルは新たな調整期に入っています。大きな変化は、日帰り利用や豪華な内装だけを強調しなくなった事業者が増えていることです。「1 室につき 1 つの専用ガレージ」という基本的な強みを見直し、自動車で旅をする方、家族旅行、出張、長距離運転者に向けた宿づくりを進める施設もあれば、ヴィラ、リゾート型施設、ファミリー向け宿泊施設など、多様なスタイルへと発展する施設もあります。

その一方で、老朽化したモーテルは建物の更新、消防法規への対応、光熱費、人手不足、地代の上昇といった複数の課題に直面しています。新築に必要な費用は初期に比べてはるかに高くなっているため、既存施設を購入して改修することや、不動産開発業者へ売却して利益を確定し撤退することも、引き続き一般的な選択肢となっています。

これは、台湾のモーテル産業が「客室は豪華であるほどよい」という競争から、ブランドの位置づけ、サービス品質、デジタルマーケティング、建築の特色、そして旅行者のニーズに応じた明確な差別化へと進んでいることを意味します。また、コロナ禍に台湾の宿泊業全体へ広がった OTA を中心とするデジタル化は、2026 年の世界的な AI の台頭など、日々進化する新技術とともに、ホテルや民宿の事業者が今後の成長を考えるうえで避けて通れない課題となっています。

文:楓采墨者

アメリカの Motel から台湾の「摩鐵」へ:地域に根づく宿泊文化の歩み

1 世紀を超える歴史を振り返ると、アメリカと台湾のモーテルは異なる道を歩んできたことが分かります。アメリカの Motel は自動車の普及とロードトリップから生まれ、「運転者が便利に休憩し、宿泊できること」を核としてきました。道路に近く、駐車しやすく、料金が手頃で、チェックインと出発をスムーズに済ませられることが設計の要点です。一方、台湾では 1960 年代末にモーテルの発想が導入されて以来、この車に便利な宿泊形態が地域の暮らしに合わせて発展しました。1980 年代には独立した駐車スペースが重要な特色となり、2000 年代以降は浴槽、スパ、カラオケ、テーマ性のある内装、レジャー設備を備えた客室へと進化し、滞在そのものを楽しむ体験になりました。そのため、今日の台湾で親しまれている「汽車旅館」は、アメリカ本来の Motel と完全に同じものではありません。自動車、道路、宿泊を直接結びつけるというアメリカの自動車文化に由来する精神を残しながら、台湾の都市開発、土地利用、消費文化、宿泊市場の競争による独自の特徴が加わっています。アメリカの道路沿いの簡素な 1 室から、台湾の「1 室につき 1 つの専用ガレージ」を備えたブティック型モーテルへ。この約 100 年の歩みが物語るのは、宿の形の変化だけではありません。自動車が人の移動をどう変え、暮らしの変化に応じて宿泊業が自らの役割をどう捉え直してきたかという歴史でもあるのです。

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